2023年6月6日 2時50分 ヘルソン州カホフカダムの崩壊により甚大な被害が生じた。

1週間が経ち、水位は低下しているものの、依然市内南部の一部の地域は浸水している。12日現在のウクライナ側の被害状況は、10名が死亡41名が行方不明となっており、邦人の被害は確認されていない。南部の浸水も数日以内にはある程度落ち着くと、市の職員は話している。市内中心部は高台に面しており、被害は抑えられたが、南部の一部地域は、平屋家屋が多く犠牲者が出ている。

                              救助される住民 撮影:小峯弘四郎

前線での救助活動は、砲撃等の危険と隣合わせで、ロシア軍の銃撃により、数名が亡くなっている。ボランティア活動をしている方に話を聞くと、徐々に水位が低下し、ゴムボートでは底が破損するので、金属製のボートと大型のエンジン船外機を使い高速で移動する必要があると、語っていた。しかし、大型のエンジン船外機は現地には数が少なく、救助及び行方不明者の捜索は困難な様子が伺える。ドニプロ川には同様のダムが複数あり、戦況次第では同様の破壊が今後も起きる事が懸念される。また、現地では衛生状況の悪化により、コレラの危険もあり、当局は地元住民に対し、水に入らない様、促している。国連職員が、ランドクルーザーに乗り、時折水質検査を行っているのを目にする機会もある。

                             救助隊員の方 撮影:小峯弘四郎

この地域はダムが出来る以前は湿地帯となっており、1950年の水力発電所建設に伴い、ダムが建設され湿地帯は減少、住宅や畑となった。

水が引いた川では、川に沈んていた住宅や、中世から第二次大戦時の武器や遺骨等も発見されている。

                   1870年頃の銃

ウクライナ国内の環境活動家は、ダムの建設により多くの、植物や動物が失われ、以前の自然環境を取り戻すには、良い機会との声も聞かれるが、市内の水不足、農地被害の観点から一日も早い復旧を市民は希望している。

水位が低下した事により、川の横断が容易になり、川を境に前線となっている為、今後両軍の衝突が懸念されている。

ウクライナでのダムの破壊は、今回が初めてでは無い。直近では、6月11日にもウクライナ軍の幹部は地元メディアの取材に対し、ロシア軍が東部・ドネツク州と南部・ザポリージャ州の境界に位置するダムを破壊したと発表しました。この地域では大きな川は無く水門が攻撃されたと予測される。

2022年2月25日ウクライナ軍は、首都キーウ攻防の為、キーウ北部の水門を爆破しロシア軍の侵攻を妨ぐ事に繋がった。しかし、いくつかの村は孤立し、話を聞いた住民は、ロシアはファシストだが、自分達の政府はクレイジーだと言う。結局ロシア軍が撤退するまで何の支援も得る事無く、ライフラインが全て無い状態で1ヶ月以上を過ごした。

       水嵩が上がった形跡が伺えるドニプロ川 キーウ北部 2022年4月筆者撮影

1941年8月18日 ドイツ軍の侵攻を防ぐ為に、ソビエトは、ドニプロダムを破壊。ドニプロダムは、カホフカダムの上流約180kmに位置する。このダムは1927年ソビエト連邦が建設をし、1932年から水力発電所として稼働。ダムの上が道路となっている為に、ドイツ軍の侵攻を阻止する為にソビエトが爆破。この爆発により、当時8万人の民間人が犠牲になったと報じられた。*実際には3千人程度の地元住民が犠牲になり、ドイツ軍への影響は無いとされている。

              爆破の翌年1942年5月8日に撮影された写真

その後、占領したドイツにより1943年夏に修復が完了。しかし、この頃ドイツ軍は衰退し、10月から12月にかけて下流のソビエト軍の進軍を防ぐ為に、貯水・爆破を繰り返し行ったが、配線不良等により完全崩壊には至らなかった。終戦後の1950年に補修は完了。

            1943年4月に撮影された修復したダムの写真
            ドイツが撤退時に破壊したダム  1943年10月21日(午前)撮影

       第二次大戦当時は、平屋家屋が多く犠牲者の数が多い事が推測される。

ヘルメットの形状から、第二次大戦時の戦死した(1941年又は1943年)ドイツ兵と思われる。

かつて、侵略者から国を守ったソビエトだが、時が経ち、国は変われど、今度は侵略者となり同じ場所で戦うのは、酷である。

By EPU

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